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阪神淡路大震災当時。 ブログトップ

阪神淡路大震災当時の記録 Ⅵ  その後 [阪神淡路大震災当時。]

再び学校に行くようになった私です。
そこでの 友人になりたての人との会話。
「これ、見て 見てーーー♪」
「何、これ?」
地震の時の写真なのー」
「え!?東灘やんねえ!???」

東灘区に住む彼女、ぐちゃぐちゃになった自分の部屋を、カメラで撮影していたのです。
すごい、と思いました。あの状況で、です。
「私もすれば良かった」 
思わずぽつりと言った私です。
考えもつきませんでした、その映像を残しておくなんて。
彼女はすごいです。

芦屋市(の下町です、ちなみに映像に当時よく出ていた高速道路は割と近いです)に住む友人は、
両親ともに教師
彼が配給のお弁当を取りにいくしかありませんでした。
しかも、彼は、人数が3名なのに 「6人です!」などと言い、食料を確保したのこと、
また、1度に何箇所も廻ったそうです。
「あかんやん」
「でもそのときは必死やってんから」
・・・そうですよね、命にかかわることですものね、食料ですから。
時効といいますか、仕方のないことだったのです。

やはり、震源地に近い友人たちと比べても 私の被害などないに等しいものだったのでした。

次の年の1月17日、学校で避難訓練がありました。
地震がこの日にあり、神戸からの学生は来られない人もいたこと、風化させてはいけないこと・・・
全国から学生が集まる学校でしたから、この日が何の日か 分からなかった人もいるでしょう。

ちなみに私はこの日、黒ずくめっぽい格好で学校に行きました。
追悼の意味を込めて。 単なるあほです。自己満足なだけですね。

そして、今年は13回忌。
来年は干支が一回りします。
一生、忘れないようにしたいです。

ここで、いったんこの話は終わりにすると思います。分かりませんが・・・。
つらつらと書き綴っていった文を読んでくださいました皆様、ありがとうございました。
また 思い出したことがありましたら、書き留めていきたいと思っております。


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阪神淡路大震災当時の記録 Ⅴ [阪神淡路大震災当時。]

Ⅰについて、ほんの少ししか推敲できませんでしたので、追記の形をとって。

私の家のわずかな被害。
  家自体が少し傾いた
    (ずっと後に 業者さんにトイレ壁紙を張り替えて頂いたとき、発覚します)。
  両親の布団の上に ガラスケースに入った日本人形が落ちてきた
    (布団の上だった為、幸いにもガラスが割れなかったのです)
  ガスの復旧が遅かった
    (ガスボンベのお世話になりました)

・・・大きくはこれくらいだと思います。私が忘れてしまっただけかもしれませんが。
本当に小さな被害で済みましたでしょう?私たちは本当に幸いだったのです。
震源地近くの皆様にとっては、そんなの被害じゃない と言われると思います。

その後、10代からの私のうつ病は やはり悪化いたします。
また、他の方も同じだと思いますが、物の購買意欲はなくなりました。
物は 置いておいても仕方がないんだ、と。
必要最低限あれば、それで充分。

何年来もずっと取っておいた 大好きな雑誌りぼんを 1度ずつ読み返し、
大好きなときめきトゥナイトカラーページと表紙、赤ずきんチャチャのカラーページのみを
きれいに切り取ってスクラップブックに残し、あとは廃品回収へ。
また揺れがきて、今度はベッドの上に落ちてくる可能性も多々ありますから、怖くもあったのです。
持っていても仕方ないとも思ったのです。・・・ええ、そのときは・・・。
今、とっても 読み返したいです。でも ないものは読み返せません。
しかし、後悔はしていません。そのときの大切な判断だったのですから。
今でしたら オークションに出して 少しはお高くお譲りできるのになあ、そんなことも考えつつ。
不謹慎ですね。
今も 衝動買いはできない私です。

卒業式。
1人の学生が亡くなったと、理事長がおっしゃいました。
「!!!」
その名前を聞いたとき、私の体中が がくがくと震えました。
1学年下の、でも同じ染色の授業をとっていて仲の良かったあの子。
彼女の名前だったのです。
他の学生は 学年の違う彼女のことを 知る人はほとんどいなかったでしょう。
でも私は知っている子だった。
なんで彼女が!?
とっても性格的にも素敵な子でした。
まさか、彼女が、校内で彼女1人が!!!
泣きそうでした、式の最中で。涙はたまっていました。
今でも彼女のことは忘れられません。

そして、卒業式の終わった後、すぐに飛天に行き、 宝塚を観るつもりだった私です。
しかし、憔悴しきり、はじめて さば○ をいたしました。以来、したことはありませんが・・・。
幸運にも 遠くから劇場だけでも見たいと大阪にいらっしゃていた親子の方にお譲りすることができました。
ちなみに、安寿ミラさんのサヨナラ公演でしたが、ヤンさんを気にしつつも、
大好きな紫吹淳さんを ずっと目で追っかけていた私です。
しかも、好きな人とは目も合わせられないといいますか、リカさんの目線がこちらにくると、
ばっとよけてしまう かわいらしいといいますか、幼すぎる私でした・・・。

卒業後、私は製菓の専門学校にすぐ通うつもりでした。
しかし、うつは地震前からひどく、卒業から2年間、考え続けます。
そして、やはり、2年後に調理の専門学校に通うことになります。
ここでの 私の友人の 私などよりも被災した友人の ちょっと笑える、でも大切なお話は
また後ほど。

昨日は新規作成のページがどうしても出てこず、書く事ができずにイライラしたものでした。
やっと続きが書けました。

 


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阪神淡路大震災当時の記録 Ⅳ 宝塚大劇場・公演 [阪神淡路大震災当時。]

阪神淡路大震災のとき、宝塚も大打撃を受けました。
そのときは安寿ミラさんのサヨナラ公演でした。
しかし、1月17日、生徒の皆さんが地震の後、公演しようとしたところ、
・・・休演となりました。
スプリンクラーが壊れ、大劇場は水浸し。
周りの状況を考えても、公演できる状況ではけっしてない。
私は幸いにもといいますか、この公演を17日の前に、大劇場で観劇いたしました。
まさか宝塚があのような状況になるなんて!
その後、劇場飛天(現・大阪芸術劇場・・・でしたっけ?)にて
細川たかしさんがご自分の公演を安寿さんのサヨナラ公演にゆずってくださりました。
観にいきました。
幸いにも 生徒さんは全員無事。奇跡的です。
汐見さんがボランティアに子供達相手をしていた映像がよみがえります。
にいちゃんと呼ばれていたみたいです。
そして、再開は麻路さきさんのお披露目公演。
初日を拝見しましたが、大劇場がいっぱいでないお披露目公演、初めてでした。
花の道に行き、ロビーに入り、感慨深いものは沢山でした。
千秋楽も拝見いたしましたが、本当に観劇者は少なかったのです。
しかし、観劇できただけでも私は幸せ者だったのです。観劇したくとも観劇できない方も沢山、本当に沢山いらしたのですから。
もう、あの大惨事がおきませんよう・・・黙祷。


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阪神淡路大震災当時の記録 Ⅲ [阪神淡路大震災当時。]

2005年1月18日、近くのスーパーが閉まっているため、池田市のスーパーまで母・弟(?)・私で行きました。
父は当時伊丹の会社でして、1月17日当日より、電車ストップの為、バイクでしばらくの間、出社。
池田と私の住む場所のこの違い!
温度差がありすぎます。びっくりいたしました。少しの場所の違いだけで、こんなにも違うだなんて!
スーパーは本当に多くの人々でいっぱいでした。バーゲンなんて目じゃありません。おそらく、私の家族同様、電車で来店した方々もいらっしゃるのでしょう。
そして、レジまでの時間のかかること。働いている方たちもさぞ 大変だったことでしょう。ご自分のこともあるのに、働かなければいけない。
当時少女マンガ雑誌・りぼんで描いてらっしゃった とある神戸の作家さんは、東京からの原稿を描く様にとの指示に、無理とおっしゃり、しかし、編集部はそれを認めなかったそうです。神戸の現状を知らなさすぎたのですね。その作家さんはその後、りぼんを去りました。
あの状況で原稿を描くなんて、無理です、ひどすぎます。でも知らなかった。
現在 私の勤める店では 数年前に移転するまでパンも焼いていました。
当時、神戸からパンを譲って欲しいとのお電話があったそうですが、事情をはっきりいって飲み込めていない店長さんは、それを断りました。数も少ないし、お分けする分も焼くことができないと。
店長さんは今でもそのことを悔やんでおられます。なんであの時 断ったのだろう、と。
しかし、現状を知らなかった。
温度差は確かにあったのです。


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阪神淡路大震災当時の記録 Ⅱ [阪神淡路大震災当時。]

ガスが止まった我が家では、お料理が 電気のフライパン(???)、ボンベのコンロ1つになりました。
炒め物が多く、にきびが沢山できました。
お風呂も沸かせません。
当時、腰までのロングヘアだった私ですが、5日間(?)ほど、我慢。
そして、箕面市の母のおばの家にお風呂に入りに 何度もお世話になりました。
父は、さすがに1度に4人が行かせていただくのをさけたのでしょう、
吹田市の父の妹の家に お風呂に入らせていただきに行きました。
阪急電車は・・・ふつうの風景でした、異様に映りました。
しかし、避難所の皆さんはもっと我慢していたのです。
これしき、たいしたことはありません。
学校はしばらく休校、最後の授業たちが、消えてなくなりました。そのままテストとなったのです。
当時私は 違う学科の授業を、先生に許可を得て、受けさせてもらっていました。
フランス語の授業、私の学科では先生のやる気がなく、どうしても受けたかったのです。
その最後の授業で 私もテストを受けさせていただけることになっていました。
その授業も消えました。先生とは二度と会えなくなってしまったのです(亡くなってませんよ)。
ちなみに 淡路島から通っているクラスメイトもいました。
顔を見たとき、本当にうれしかったです。
テストですが、非常時のため、再試料が無料でした(普通はお金がかかりました)。
1つの科目がどうしてもA判定がとれないだろうと予測し、その科目の本テストを受けずに、再試のレポートをわざと受けたのはこの私です。時効です。もちろん A判定を取りました。
花とゆめで連載されていたマンガの フルーツバスケット の うおちゃんのようですね。
A判定以外はプライドが許さなかったのです。

続きは後ほど・・・。1月18日の、地域の温度差についても書きたいです。


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阪神淡路大震災当時の記録 Ⅰ [阪神淡路大震災当時。]

どどどどどどどど・・・・・・・・・・
という音が聞こえ、数秒後、ドシン!
そしてグラグラグラグラ・・・・・・・・
当時住んでいた家で、地震!大きい!
とっさに布団をかぶった。本能ってすごいですね。自分の身をとっさに守ろうだなんて。
揺れが治まってから、
「お母さんー!地震!!!
ラジオ!S(弟)、お母さん、お父さん、誰かラジオつけて!!! S,ラジオーーーーーー!!!」
こういうときって何故か一番に呼ぶのは 母なんですよね。
私のCDラジカセは電池を入れていなかったため、電気が途絶えたそのとき、全く役にはたちませんでした。
近所は妙に静かでした。
そして、余震。
ベッドの上の棚には当時、マンガ雑誌のりぼんがずらりと数十冊、並べてありました。
南北に揺れたので落ちてこなかったのです。
東西に揺れていたら・・・私は雑誌の下敷きになっていたことでしょう。
しばらくして起床。学校がありますから(いえ、後ほど書くように 行けませんでしたが)。
電気は1時間くらい(???)で復旧、テレビをつけながらテロップをじっと見続け・・・
電車がとまっている・・・学校に行けない・・・。
テスト前の最後の授業の週なのに。
父は仕事の帰りに 少し遠いコンビニにすぐさま行きましたが、買うようなものはなく、品切れ。
スーパーはもちろん開きません。
水道も2~3時間(???)で何とか復旧。
しかし ガスはⅠ~2ヶ月 復活しませんでした。

・・・・・・申し訳ないです、美容院に行ってまいります。
生まれ変わる の意味を勝手に込めて、お店が定休日でしかも17日の本日、行こう、と思ったもので・・・
続きは後ほど・・・思いついたままに書き連ねたので、できましたら推敲いたします。


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黙祷 5時46分。 [阪神淡路大震災当時。]

黙祷。

やっと黙祷が出来ました。毎年、二度寝などで、この時間を逃します。哀悼の気持ちを込めて。
今年は携帯のバイブのおかげで 起きて黙祷ができました。

本日は 長々と当時のことを書いていくつもりです。
書きたいことは多すぎて、時間がかかりそうです。考えも まとまらず。
しかし、どなたか一人の方でも その文をみていただけて何かを思ってくだされば 幸いです。
夕方になるかも、夜遅くになるかもしれません、
しかし、自己満足かもしれませんが、書き留めておかなければ、
当時、わずかな被害であった私ではありますが、そう思います。


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あれから12年。 [阪神淡路大震災当時。]

阪神淡路大震災から 今日の5時46分で 丸12年がたとうとしています。
本日は当時の様子を長々と綴っていきたいと思っております。
黙祷。
まだ復興は終わっていません。忘れてはなりません。


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